二日連続開催、女性サポーターの登壇と
「初」が重なった昨日の大阪ゴー宣DOJO。
私は何より女性たちがのびのびと語っているのが
嬉しかった。
そして、現場感覚から生まれる素朴な声を「公」にまで
昇華させようとかっちりグリップする小林先生。
イイ感じの噛み合わせだったのではないかな?
冒頭、先生が「笹さんはいろいろ注意しても
その後を報告してきたことはない」と言っていて、
「ありゃ、報告すべきだったのか?」と一瞬思った。
けど、私はその必要性をそもそも感じていなかったと
いうのが正直なところだ。
「先生にAと言われたから、Aの通りにしてみました」
と報告したところで、何になる?
学校の先生じゃあるまいし、そもそも、めっちゃ気恥ずかしい。
報告した途端にうそっぽくなりそうな気もする。
「Aと言われたけど、どこを見てそう言われたのか」とか、
「その原因はどこにあったのか」とか、
「本当にAか?」とか、
「こういうときはBじゃないか?」とか、
自分があれこれ考える際の思考の軸になればそれでいい。
そうやって自分の中で少しずつ消化していくことで、
気がついたらそれが自身の幹になり、枝葉となり、
自分ならではの言葉や態度として表れる。
その結果をもたらしてくれたことへの感謝は、
きっと棺桶に向かってするだろう。
外からの刺激と、内からの刺激で、心にさまざまな
化学変化が起きるのは、自分が有機体である証拠だ。
自分が無謬の存在であると思うことほど
つまらんことはないよね。
その化学変化が公に向かう道程だと感じ取れるのが、
DOJOの魅力であり、道場たる所以だ。
健全な自己愛を育むには母性的な愛情が不可欠だけど、
その歩みの試行錯誤と絶え間ない自己点検には
父性的な愛情が必要だ。
私はまだ、子育てに冷たい世間の風潮が
戦前の国策の反動だという指摘が、
「点」として提示されても
まだ「線」としてはつながっていない。
「どういうことだろう?」という状態。
整理しきれていないのは、私自身が戦後民主主義に
どっぷり浸かって客体化できていないからだろう。
でもその視座は常に私の中にあって、
何かの拍子に「なるほどそういうことか!」と、
化学変化が起きるであろうことも想像に難くない。
こういうことがあるから、DOJOはやめられない。
女性活躍というテーマを取り上げてくださった小林先生、
二日連続開催という暴挙(?)を実現してくれた
総合Pちぇぶさんはじめサポーターの皆様に
心から感謝申し上げます。
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